ダッシュ!!

最近やりたいこと・やらないといけないことを増やしているのに、どうも追いつかないな…(追いついてないこと自体はいつものことだという自覚はあるが)と思っていたら、どうも特別にやることがないときと同じペースで生活をしている自分に気がついた。
ダメだ、もっと時間を作ろう!なんでもちゃっちゃとやろう!!ダッシュだ!!!
というのがとりあえずここしばらくの目標か。
なんでも8割方ことが済むと満足して減速してしまうのが私の悪い癖なので、ちょっと頑張ろうと思ったくらいでは頑張りすぎたりしてしまわないので大丈夫。健康的で有意義な生活を目指さん。
というわけで、本当は延期してしまおうと思ったツイッター登録を完了*1。いざとなるとフォローしたい人があまり思いつかないのでおススメ募集。何人か最初の糸口をつかめば、その人がフォローする人を見て回ればいいのかな。試験申し込みも完了(ただし未入金)。人生にがっつきたくなってきた今日この頃。
これだけ書いておこう、と思ったことを思い出した。

この本の中で宮台氏が子どもが生まれたことによって「旧住民ネットワークに入った」という話をしている。そのあたりのことを考えていて思い出したのが『風と共に去りぬ』のレット・バトラー。彼の行動を重なるものを感じた。
バトラーはヒロインのスカーレットと結婚し、娘が生まれる。バトラー夫妻は南北戦争に敗れた南部地域において、不正な(というよりは単に裏技的だったか。詳細忘れた)金儲けをしてリッチな暮らしを続けて「良識派」な元富裕層の人々に嫌われ、また夫妻の側でも「いつまでも頭の古い馬鹿たち」というように嫌っていたのだが、娘が生まれた途端、バトラーは元富裕層たちに愛想を振りまく。娘を乳母車に乗せて夫婦で街を歩き「こんにちは○○夫人」とか「おしゃぶりをやめさせるにはどうしたらいいのでしょうか、あなたのお知恵を貸してください」とかいうように話しかける。するとバトラーの評価がガラッと変わるのだ。「あの人は実はいい人だった」「今度のパーティーには招待しなくては」などなど。「なんであんな人たちに愛想を振りまくのか」とかみつくスカーレットに対して、「ボニー(娘)には最良の環境を用意してやるんだ!お前も協力しろ!」と言うのである。
別に宮台氏がかように「戦略的」に旧住民ネットワークに入ったのかどうかは知らないが、こんなところに類似の行動がみられるとは、ちょっとした発見気分。

  • 不正確な表現について

先日NHKでベビーカーのテレビショッピングかと見まごうような育児情報番組がやっていた(なんて書くと何だが、必要な人には有益そうな情報がつまってて良い番組だったと思う)。少なくとも10数年間、我が家の赤ちゃん×4人を運ぶ現役時代に加えて荷物も運び、使い古すというよりは使い倒したという感じの我が家のベビーカーが真っ先に浮かぶ私からすれば、ピカピカにしか見えないベビーカーが「ずいぶん使いこんでいらっしゃるベビーカーですね」などと言われていたのがショックだったり、軽いやつ重いやつ、4輪や3輪、高さがあるものやらなんやらバラエティーの多さにも驚く。
が、気になったことがある。
もしかしたら、この手の番組に当然に「パパ」の存在が出てくることだけでも、人によっては「時代は変わった」と思うことなのかもしれない。だがなぜ、不正確な表現をするのだろうかということが私は気になってしょうがない。
ベビーカー選びのポイントとして、「誰がどういう場面で使うことが多いのかをポイントにして選びましょう」と言う。これだけのバラエティがあるのだから、場合によっては使い勝手の悪いベビーカーも当然あるわけで、例えば階段の上り下りやバス・電車利用が多い場合は持ち運びが楽なように軽く、ワンタッチ(片手)で折り畳みできるものがいい、など。なるほどたしかに、である。
背の高い人が持ち手の低いものを使うと腰が痛くなりますよ、というのもうなずける。だがなぜそれを「パパがよく使う→背の高いもの」という図式にして現すのかが不思議である。パパは絶対に背が高いのか?違うだろう。仮にママ<パパの身長の夫婦であったとしても、180cmのママと190cmのパパだったら?基本ユーザーがママであったとしても、背の高いものがほしいだろう、たぶん。または145cmのママと155cmのパパだったら?平均的な高さのでいいだろう、たぶん。なぜ、ここでのポイントは「ユーザーの身長」であるのに、「パパ向き、ママ向き」に落とし込むのか。

*1:たぶん全然つぶやかないので私をフォローしようという奇特な方もしていただかない方がよいかと