真善美と聖を求むなり

というのは高校の校歌の一部で、当時私はなんて堅くて時代がかった歌詞だろうと思っていた。校名が入っていなくて、短くてちょっと変わった感じでしかも歌いにくい(追いにくいメロディーの上に息継ぎしにくい)という変な校歌なのでわりあいと好きだったけれども。
しかし私は、清く正しく美しく、強くて正義にかなうものが大好きである。オスカルもお蝶夫人も亜弓さんもみんなそうだ。秩序とバランス、因果応報と等価交換で世の中が成り立てばいいのに、と言いきってしまうのはなんだか怖いけれども、そう思っている。そうでないものごとを許せない、と思っている。秩序はあくまで私基準なのだけれども、マイルールからの逸脱がとても苦手だ。
ということを自覚し、自分の好き嫌いを自覚し始めたためか、このところ人生が少し楽に、先行きが少しクリアになってきたような気がする。
それから私はもしも専業主婦になるようなことがあれば、かなり精神的にやられる危険性があるので全力で避けたいと改めて思った。気がふさいだとき、「もんもん」を追いやってくれるのは、目の前に差し迫った仕事だ。これなくして私は健全に生きられる自信がない。多くの先人達が「それが当り前である」という認識と、今よりはもう少し手のかかったであろう家事(それでも家電が一通りそろったのちはそんなに現代と変わらないのではないか)という程度のアドバンスだけで、専業主婦になっていったのはすごいことだとこれまた今さらながら思う。余ったエネルギーを趣味なりに注げる人ならばよいだろうが、私はそうできる自信はない。
さて、エレクトーンにはだいぶ慣れてきて、右手もほとんど考えなくても指が動いてメロディーラインをたどれるようになってきた。3月にドを親指から弾き始めてラが出てきた瞬間に「指がない、弾けない!」と固まったときからすればかなりの回復。
今週はやや余裕があったので平日も弾いた。ふっと気がつくと、夢中で鍵盤をたたいて繰り返し弾きまくっているときがある。自分の動きに対して音楽が出てくるのがうれしく、ただ熱中して、またそういうふうに何かにのめり込む時の集中が心地よくて弾いている。エネルギーを発散するのが楽しい。
そういうときも大事なんだろうけれど、しかしこのやり方では上達しない(もしくはかなり遅い)ことに私はいつの間にか気が付いていた。「一生懸命」という度合いでは、そういうときの集中力が一番なんだけれども、一生懸命やるだけではうまくならない。弾けないところをまずはピンポイントで繰り返し、つっかえるところは左右を一旦バラして弾き、テンポをゆっくりにし、できるようになったらまた一つずつ合わせていく…というように理性的に論理的に冷静にやらなくては非常に効率が悪い。小学校のときに習っていた私は、そういうことを知らなかった気がする。