困ること

日常のちょっとしたプラスの出来事では帳消にできないようなちょっと辛いことがあるとき、繰り返しそのことを考え空想し反芻してわざわざ自分をしんどくさせる、という自虐的な癖があるのに最近気がついた。
気がついた、というのか…これまではそれを致し方のないこと、cannot help doingのような、病気にかかっているような被害意識でとらえていたのだが、今回これは、自分で勝手にわざわざ傷口をいじっているだけで被害妄想的で、そうでなくなるようにできるはずのことだ、と思うに至った。
もちろんこれまでも、こんな風に考えるのはやめようとは思うことは思っていて、それでもやっぱり捉われてしまって…と繰り返した。今回わざわざ身を苦しめる必然性はないと気付いたところで、簡単に自由になれはしないのだが…。
手っ取り早いのはやっぱり、気分転換をするということ。(そういってなんとなく放置して果たして本当に時間が解決してくれるのかもよく分からないけれど)無条件に楽しいことをする。楽しいというのも意味もいろいろあるが、ぱあっと気を晴らしてくれる、ほとんどどんな時でも夢中なれる、明るく楽しい気分になれる、目の前にあったうっとうしいことを忘れさせてくれること、というような意味で考えると、私にとっての無条件に楽しいことって今はセックスと宝塚だな、と思った。この二つを併記するのもそもそもここに書くのもどうかと多少は思ったけれど、いやでもやっぱりこれなんだよね。
ちょっとかなりあいまいな記憶で書くが…宮台真司がどこかで「先進国の若者が夢中になってるのは、セックス、ダンス、クスリ」と書いていた、あれってこういうことなのかな〜、と思う(違う?)。
この前友人と話していて、私はセックスに関する倫理的タブー観がゆるい、という話になった。いろいろ考えてみたけど「その人たちの心身の健康が許すならば、オッケー」が現状の結論。他人のセックスをよくないとかなんとか、非難していられないと思った。いろんな人とセックスしたい人はすればいいし、したくない人はしなければいい。心身の健康に悪いセックスはしなければいい(ていうか、この世からなくなればいいとさえ思う)。私の中ではすっきりとまとまってなかなかいい感じなのだが、抽象的で現実に適用しにくい、かも。これを判定するには、やっぱり人は自分にとっての楽しいこと気持ちいいこと幸せとはなんなのか、つかんどくことなんだ、そうだ、と一人で納得。無用の誤解を避けるために一応断わっておくと、私自身は今もそして多分これからも、いろんな人とセックスしたいとは思わないと思っていますが。
宝塚の方は、ちょっと熱が冷めたりする時もあるが、ぐったり疲れて帰宅した日に宝塚番組で舞台映像が流れた時のテンションの上がりようと精神の回復に我ながら驚く(笑)「キャー!!ちょ〜カッコいい!!!」「あーもう、つまらないことはどうでもいいわあ。また頑張れるわあ」と無邪気に元気になれる。観劇した後の晴れ晴れとした気分もまた格別。私にとっては宝塚はコアなファンになる必要はなくて(お金やら時間やらいろいろ足りないというのもあるが)時々忘れずに「宝塚成分」を自分に適度に注入できればいいと思っている。あー、でも一度でいいから一番前の席で観てみたい…。
というあたりに少し意識的になって、今週もこれからも明るく過ごしたいと思います。