「売り言葉」

昨日の深夜にBSでやっていた大竹しのぶの舞台「売り言葉」を観た。面白かった、そして強烈なものだった。「智恵子抄」の智恵子像に対して、本当はそんなんじゃない、光太郎のその智恵子イメージに押しつぶされ、自分をすり減らして狂っていったんだ!と「売り言葉」を叩きつける一人芝居。大竹しのぶの舞台観てみたいなーと思って撮ったのだが、この人すごいわ。と思った。「売り言葉」を福島弁(智恵子は福島出身)でしゃべる、智恵子の代弁者と普通の智恵子と、一瞬のうちにキャラが入れ替わるのが分かる。いろんな声色を演じ分ける。そして、面白い。すごいなあ。北島マヤをやるならこの人、と誰かが推薦していた(そして実際に舞台化されてマヤ役をやったらしいが)のを思い出して、納得した。そう、たしかにマヤが思い出される。
そして内容自体も恐ろしい。あの美しい「智恵子抄」の詩も、演出や演じ方次第で恐ろしい人を追い詰める文章になる。「光太郎に心配をさせてはいけない」「私たちは芸術家なのだから」「私が何とかする何とかする・・・」と追い詰められていく智恵子。2時間足らずの劇の中で、女学校時代の若さあふれる長沼智恵子から、狂気の智恵子に変わっていく。みごとに時間が経つ。
もちろんこれは「本当はこうだったのだ!」という暴露ものではなくて、「あの“純愛”はこうも解釈しうる。どうですか?それでも単純にああ美しい愛だなんていいますか?」と一つの見方を投げかけているだけだと思う。が、それを承知の上で、光太郎と智恵子の関係を考えるとどうなのだろう。
これは一方的に、智恵子が光太郎に食い物にされた、という話ではない。智恵子も光太郎にのめりこんだ。自分の才能のなさを受け入れられなかったのは智恵子の弱さだ(色盲であったというのは本当なのか?)。そして光太郎の描く自分であり続ける他はない、さもなくば自分の存在価値を認められない…と自らを追い詰めていった。実家が裕福であることや才能のある光太郎に認められる存在であることでプライドを満足させていた智恵子も共犯者であると私は思う。そしてこれは「若者問題」を心理面から扱う本によく出てくるのと同じ構造ではないか。心の病の時代に…そして、「女であること」は関係あるのだろうか。