CMより

いつも半ば意味なくいろいろな固有名詞を伏字にしているが、今日は思い切って本名を出してみました。
私は、中央出版のCMが嫌いである。
といってもおそらくもっともっと気に入らないCMはあるだろうし、そもそも私はテレビを見ている時間が短いので知らないCMも多いだろうと思われる。朝日新聞に「CM天気図」というような名のCM評のコラムがあるが、そこに出てくるCMがあまり分からないので最近はあまり読まないくらいだ。
中央出版のCMといってもいくつか種類がある。それぞれ嫌いな理由が違うが、単純に言うとどれもたるくて洗練されてない。教育格差問題やらゆとり教育やらで揺れる教育界のわりに、えらく牧歌的に見えるので大丈夫かなあ古くさそうだなあと思えるのもある。親役が過剰にアホだし、「石川ブタギ」とか。が、わざわざブログに引っ張り出してまでケチをつけたいのはそのうちの一つ。
①九九のやつ…端的に、つまらない。私は三枝の「いらっしゃい」というネタも分からなかったので余計。 ②高校生しゃべり場ふうのやつ・・・あのわざとらしさがうざい。 ③一応塾のやつ…まあこれもとりあえずつまらない。私も「一応塾」という考え方は嫌いだけれども。
そして、取り上げたいのは④子どもがサッカーをしているやつ、だ。簡単なストーリーは以下。幼稚園か小学校低学年くらいの子ども集団が公園でサッカーをしていると、少しボールが離れたところへ行ってしまう。その先には不安げな顔をした白人の男の子がいる。その子に向かって子ども集団の一人が「Join us!」と言い、その白人の男の子もサッカーに加わる。そして話しかけた子どもの親がベンチでそれを見ていて「○○(名前、忘れた)英語使っとるわ・・・」とつぶやく。というもの。
ここで私が言いたいのは、「外国人」=英語と思うんじゃないよ!という点である。たしかに「日本人好みの英会話教室の先生の子ども」みたいな英語をしゃべりそうな子どもだったが、なぜためらわずに英語で話しかけられるのか。話しかけた男の子は日本語と英語しか知らず、日本語よりは通じそうだと思ったからか?しかし、英語圏以外の家庭の子で、日本育ちだったら日本語の方が通じるんじゃないか。
子どもに英語を習わせたいと思う親というのは「国際性を身に付けさせたいから」だと思うのだが、「外国人=英語」という図式は国際性からは程遠い。金髪青い目のいかにもな白人であったところで、英語が分かるかどうか分からない。フランス人やイタリア人やドイツ人だったらどうなんだ。世界にはいろんな言語がある。日本語は1億人ちょっとにしか通じないし、英語は…まあすごいけど、でも英語が外国ならどこでも通じると思うのは大きな間違いだ。そこを分かることが国際人への一歩ではなかろうか。
それから、もうひとつ。これは住んでいる場所によって大きく違うだろうから、あくまで愛知県三河に住む人間としての実感。(自国の状況を理解するというのも国際性の一つではないかと思うが)
もし近所にいる「外国人」と意思疎通がしたいなら、英語ではだめだろう、ということ。ポルトガル語スペイン語かフィリピン語(タガログ語だっけ?)あたりが現実的だ。電車でもよく日本語ではない言語を話す人たちによく会うが、8割方英語ではない。英語を使っているのは刈谷駅あたりで乗るビジネスマンか、大学付近の留学生くらいだ。教育現場でも実際困っているようだが、南米出身の児童生徒は増えている。弟の学年にも何名かいるようだ。そういう児童生徒にとって当然英語は「外国語」なのだから、通じない。英語は無力なのである。
これから移民や外国人労働者が増えるかもという論はまま聞くが、どうも入ってくるのは英語圏外の人であるようだ。英語はやはり日本に住む人に「身近な言葉」にはならないだろう。
というわけで、私が文句を言いたかったのは以下の二点。
・外国人だ=英語で話しかけよう!ってな思考
・しかも、今の日本の状況からして非英語圏のほうがメジャーなのに↑のようなことをする点
もっとも学校教育で全国の子ども教える言語としては、英語は適しているとは思っているけれども。