人の心も

白雲の立ちわずらえる景色かな
掛詞っていいなと、謡に慣れてきて思うようになりました。
そういえば、といってしまうあたりが無神経で薄情なのかもしれませんが、今年は年賀状を出せないのであった。喪中でした。というわけで私からの年賀状が来るであろうと期待・普通・迷惑に思っていた人々、出しませんので。年賀状、面倒だけど、毎年ギリギリだけど、でもやっぱり好きなのにな。身内の喪を、年賀状を出さない・年賀を祝わないという形で表すという思考に慣れていない。今年はおせち料理とかなしなんだろうか。疑問。
私はりくる〜と社が怖いです。…そんなこと言ってみたって何にもならないし、便利だから使わせてもらうし、なんでも「陰謀」説に持ち込めばいいってものでもないし、とどのつまりせいぜい言えるのは「メディア・リテラシーを身に着けよう」という程度なのだが。
へぇーと思ったのが、ゼミで以前「フリーター論」を扱った時(長山靖生『若者はなぜ「決められない」か』ちくま新書 2003)。「フリーター」という言葉を作ったのはリ社で、就職情報誌たるリ社には転職をころころしてくれるこのフリーターたる存在は大変便利で、しかしどうもフリーター達はその点には考えが及ばず、本気で本気で自分に本当にあった仕事、なりたい自分探しを手伝ってくれている、と思っているように見える、というあたりを読んで。(ちなみにこのテの本を読むと、「天職」だの「本当にやりたいこと」だの「生きがい」だの贅沢言わずにとにかく正社員になろう!という気になります)。で、ふーんと思っていたところへ、自分の就活。自分に「見合ったもの」がくる。本当にやりたいこと、とか自分探し、とか言うけど、確かに情報はいっぱいいっぱい詰まってるけど、でも十分にフィールド分けされたうえでの選択肢の提示だよね。と思った。さらに高校生の弟Ⅰあての進路の資料もリクルートからだったのを見て、さらにその思いを強める。そりゃあ、企業としてなんら悪いことはしていない。需要もバッチリあるところだ。でも、その「フィールド分け」がともすると見えなくなってしまうのが、私は薄気味悪く思うのです。
Today's Lesson 己の欲せざるところを人に施すことなかれ ううむ。