説明しよう

と言ってアナレーターがペラペラしゃべりだすアニメのように、できたらいいのにな。言葉に詰まっても、とにかく説明しよう。真っ白なキャンバスに自由に描きなさいという指示が一番怖くても。
・・・なにが怖かったのかな。やっぱりあれかなあ、「自由に」と言っても本当に自由じゃないところ。私の通っていた小学校では、春と秋に「絵をかく会」というのを開催していた(最近は行事削減の流れにより廃止・縮小されているようだが)。その日は丸一日全校挙げてみんな絵をかく。春は写生、秋は読書感想画。どちらも学年ごとにテーマが決まっていて、春には1年のときにニワトリ、5年にケヤキの木をかいたことは覚えている。本はどれもタイトルは忘れたが、2年には動物のカーニバルの話、4年はおじいさんと船とそれが空を飛ぶ話、5年にはアジサイのマリが出てくるやつ、6年には戦争の話がらみの南の島と魂が出てくる話・・・って書いても意味分からないな(笑)その気になって探したらタイトル分かるのだろうか。
絵はそこまで好きじゃなかった、というよりも得意じゃなかったので(というところがとても私らしい)、そんなに好きな行事ではなかった。それでもそれなりに楽しめる行事だったとは思うのだ。だが、今思い出すと、やっぱり「それはやっちゃいかんだろう」と思うことがある。それは「先生の指導」。このへんは個々の先生の力量・裁量が大きいところだとは思うが…。鉛筆の下書き、クレヨンのアウトライン、絵の具での彩色、いちいち先生に見せに行くのだ。テストの採点を待つ気分。当然、小学校教諭なので図工の専門の人ではないことがほとんど。テクニカルなアドバイスは、あまりなかったのではないかと思う。
丁寧に書きなさいとか、まあ…ある程度はしょうがないかもしれないと思う。しかし、構図そのものとか、選んだ場所や場面そのものに「これは違うんじゃない」などと言われるとちょっとどうしようと思う。覚えているエピソードがある、4年の時。下書きを見せに行ったら「ちょっと物足りなくないか?」と言われた。私はなんとなく「ここに船をかけばいいんだろうなあ・・・」と思った。私も一度はかこうかと思ったのだ。しかし周囲を見るとあんまりにもみんな同じようなのをかいていて、ここで船まで加えたら本当に同じになってしまう。だから敢えてかかないでいたのに…。ともあれ私は結局船をかいて先生に見せに行った。すると教師は「やっぱりそうだろう」といってゴーサインをくれる。なんだかなーと思って、でも絵の具へ移る。この間にも周りがどんどん絵の具に移っていったり、まだ下書きを焦ってかいている子がいたり、ちょっと競争めいて思えたのは私がひねくれていただけか、当然のことか。
2年の時には、「ここの場面を絵にするのはどうか」と言われ(物語のメインのシーンじゃなかったので)、クレヨンで下書きしていたので画用紙の裏にもう一度まったく別のシーンをかかされたことがある。
さて、この思い出話から私は何をいうべきだろうか。この教師はけしからんと言うべきか。芸術教育の難しさか。かくして、「自由」をタテマエとしかとらない、思考能力の低い人間が出来ましたと言うべきか。それとも、そんな程度でつぶれるならつぶれてしまえしょせんその程度の人間、と?それとも、己の力量のなさを学校教育のせいにするな、と?

「みえるものが真実なのよ黄緑の鳩を時計が吐き出す夜も」(穂村弘

見えるものしか見えません。でも何が「見える」のかは、人によって全然違う。見えないものを見えるようにするために、少しでも見えるものを増やすために、人と話したり一緒にいたりするんだろうか。