気づきの「けり」

日記のタイトルというのは、実は結構注目ポイントなのだ。読み手は意外に気にせず、本文ばかりを読んでいるだろう(そんなことはないですか?)。しかし書く側としては、さりげなく真意を表現してみたり、しゃれてみたり、分かる人だけ分かってよというメッセージを込める。…という話をしておきながら、私のブログのタイトルにはそんなに深い意味はない。語感のよさを最優先。今回の〈気づきの「けり」〉は、ハタと気づいた、からふと思い出して、特にこれといったトピックもなかったので。後付けの解釈だが、古文関連のものをちょっと眺めていたことを思い出す契機になるのかもしれない。他のブログの書き手の方々は、どうなんですかねぇ。そういえば、私が日常的に見ているブログは、いずれもわりとスタンスが違うように思う。どんな感じで書いてるんだろ。
ハタと気づいたのに、状況を改善させる方向に一日を使わなかった。使えなかったとは言いません。ヤバい。「…死にたいのいか?」今度はトートの登場…(笑)。いや、そりゃもちろん死にたくはないけど、「今死んだら死んでも死にきれないッ」なこの一週間は終わったのでまだマシかな。なんて、80歳は当然、90歳か100歳まで生きると決め込んでいる私のセリフじゃないんだけど(笑)
文章をずっと読んでいると、その文体の癖がうつってくる。読んでいるのに限らず、映画なんかでもたまに。思考回路ごと侵されてくる感じだ。洋画を見ていると時々頭の中が英語になるときがある。しゃべれるような気になるのがうれしいが実際にはしゃべれないのであんまり意味はない。京都弁の本を読んでいたら頭に浮かぶ言葉が京都弁っぽくなったり。方言でなくても村上春樹みたいな癖の強い文章だと一発だ。彼ほどでなくても多くの小説には侵される。先日江國香織を読んだ時も怪しかった。文体模写斎藤美奈子は得意そう、そういうの。ちなみに彼女の文の影響から「ってなわけで」を使うようになったんだった。そうか、じゃあゼミ論書く時には上野さんでもがばっと読んどこうっと。
そうだ、文体模写ごっこ、今度やってみようかな。そんなもん誰でも出来るわ、みたいなつまらん企画ならやめるけど。ところで、一体なにが「誰でも出来ること」でなにが「実は他人はできないこと」なのかの判定は意外に難しい。それを実感したのは、私の場合は体の柔軟度と首関連のことが二点。まあ、暇になってもしくは現実逃避で、小説なんかを読んでブログを書いたらそんなようなことにはなるだろうな。
私の文体も真似されやすいんかや〜(と急に三河弁)。携帯の予測変換機能をみるに、自分の語彙も言葉遣いも意識する以上に限定されているようなので、たぶんそれなりに癖はあるだろうと思う。私の場合、テンションの高低と改まり具合によってかなり違いがあるはず。誰かやってみてください(笑)なんとなく気持ち悪い気もするけど(笑)