「団塊」を

「ダンキ」と読んだ人事の人に就活中に会ったことがある。はじめは何を言ったのか分からなかったが、どうもこう誤解しているらしいと前後の文脈から判断。いい年したおじさまだったんですけどね〜御自ら団塊の世代の。
で、なんで私はこういうのばっかり面白がってしまうのか分からないけど、ついつい面白がってしまうんですね。日経ビジネス「シリーズ「定年」土壇場の夫学」「誤解の世代」と「お茶」のところが特に面白かったです。キャッキャというかケケケというか笑いたくなります。イエス、サー。誤解しまくりです。男女平等主義のリベラリストだなんて嘘八百。「お茶くらい機嫌よく淹れてよ」とすがってくる同居人などいたら…笑えますね(笑)飲みたいなら淹れる。淹れるのがいやなら飲めない。物理の法則にしてもいいくらい当然じゃないですか(笑)
先日後輩たちと話題になったけれど、電車内だったのでさすがの私も遠慮して本当に言い切れずにいたことを書こう。いや、私が本当は何を言いたかったかというと・・・という。
性の乱れと言いますが、「婚前交渉」が当たり前になったのはとうの昔のことです。その「誤解の世代」にあるように、「神田川」は同棲を歌った歌なんですよ。「婚前交渉など当たり前だー!」という時代に、私たちの親世代の時にはすでになっていたのです。「セフレ」という単語がいつから出てきたのか知らないが(この略称はさすがに最近か?)、「セックスフレンド」という言葉もそれなりに歴史を経ているもののはず(という根拠は『椿山課長の7日間』で椿山課長は自分と知子はそういう関係だった、と言っているからというのだからはなはだいいかげんではありますが)。ただし、実際に結婚するときにも「婚前交渉は当然」と堂々としていたかどうかは別のようですが。
それなのに一体どうして今でも「結婚」と「セックス」はしっかりと手をつないでいるのだろう?それがいけないということじゃなくて、実態とまったくずれているにもかかわらず、「最近は性が乱れだした」と認識したり、「本来は婚姻関係内でのみ存在すべきもの」とセックスを認識するのだろうか?それが謎。
それで本当にいいたかったのは「公衆便所」です。「共産革命の後は女性差別などなくなる」と言いつつ男尊女卑・性役割分担意識バリバリの左翼に愛想を付かした女性グループがウーマンリブ活動を始めたのが1970年。そのなかで田中美津という人が「便所からの解放」と言っているのですが、これってみなさん意味が分かるんでしょうか?私は分からなかったです。「公衆便所」は(左翼運動内での?それとも一般に使うのかな?)隠語だそうで、「公衆=誰でも使える」「便所=排出するところ」から「誰とでも寝る女」の意味だそうです。となると「便所からの解放」のナマナマしさが分かります。どんなところでも「便所」は必要なんですね、バリケードのなかでも。
というわけで、こんな昔から性は「乱れて」いました。最終的にいいたいのは、そういうわけだから、簡単に「昔は〜(だからよかったけど)、今は〜(だからよくない)」という言説をイメージで信じてはいけません、ということです。あと、「公衆便所」の衝撃を誰かと共感したいという動機もありますが。