家事スキル

実家に帰って思ったこと。家事は人の数だけやり方があるというが、本当にそうなんだと改めて実感した。私の家事のやり方は基本的に母を模したものと思っていたが、例えば洗濯干し一つでも適当にやっていると「それはそうじゃなくてこう」というコメントがつく
。ははあ…ある程度どう干したって、1日干しておけば乾くってば、と思って気がつく。そうか、家事のやり方のアドバイスは、もちろん生活の知恵として重要なものもあるものの、大半は単に「流儀」に過ぎないのだ。つまり、人にやってもらうときは「こうやらないと失敗する」という部分だけ、こうやってほしいと言えばいいのであって、それ以外の「こうやった方が私としては気分がいい」という部分は捨てるのが大事なのか。

里帰り生活

時間に少しゆとりがあると自分の生活を記録したくなる性癖があるようで。
就職を機に実家を離れてから7年半、初めて長期的に実家に居ついている。里帰り出産のためなのだが、お腹の中が双子のおかげで産前休暇が単胎よりも8週間長く、思いがけずゆとりある優雅な生活を束の間手に入れた。もちろん、伊達に休暇が長いわけではなく相応のリスクがあり、今の時期から不安定になりやすかったり、各種トラブル(高血圧、むくみ、腰痛、便秘、痔など)もより見舞われやすいし、今はよくてもいつ入院になるか分からないからねと言われている。物理的にも大変で、私も妊娠7カ月末ですでに臨月ですか?というサイズのお腹になってもいる。しかし、私は極めてついてるなあと思うが、妊婦生活が全然辛くない。体重は+8キロになっていてさすがに多少重いものの、特に痛いところもなく、仰向けも平気だし、立ったり座ったりも母親に動きが軽いねと驚かれる。食欲は程よく旺盛、各種トラブルもない。
というわけで、申し訳程度に家事を手伝うだけで3食おやつに昼寝つき、日課はウォーキングとマタニティーヨガ、残りの時間は読書なりネットなりに使えるという、優雅と言うほかない生活をしている。人によっては外出が思うに任せずイライラするようだが、元々インドア派の私としては、本とネット環境があれば時間をつぶすのに事欠かず、すっかり隠遁生活になじんでいる。ああ、こんな生活、これから先の一生で老人ホームに入居でもしない限り、二度とないだろうなあと思う。
家に残っている配偶者は『産後クライシス』(2冊あるようだがどちらかまでは聞いていない)を読んで相当びびったようで、まずは家事スキルの向上に励むことに決めたようで頼もしい。

恐るべきNHK

ある平日、早く帰宅することがあって何となくテレビをつけて、懐かしくなってNHK教育の「にゃんちゅう」を見ていた。NHKのキャラクターもほぼ代替わりして、よく分からないものが多いのに、まだ生きているのか「にゃんちゅう」。その一コーナーで、海外にいる子どもがその国をレポートするという趣旨のものがあるらしく、今日はイギリスのロンドンから届いています!という場面になった。そこでのイギリスの紹介とその「おねえさん」のコメントに私は心底驚いた。

イギリスの紹介「イギリスは女王様がいる国です。(中略忘れた)最近では王子様が生まれて話題になりました」
おねえさんのコメント「あーあ、私のところにも白馬に乗った王子様が来てくれないかなあ」
今でも、「白馬に乗った王子様」ってギャグじゃなくて使うの?!何そのセリフ、誰が台本書いたの?それともフリー発言?さらにはちょっとポイントずれるけど、生後数か月の赤ちゃんのニュースで「迎えに来てくれる王子様」とかいうのも正直気持ち悪かった。
NHK教育には子ども向けにいい番組もあると思っているが、正直ことジェンダー感覚についてはまったくもって油断ならない、と判断した。
昔聞いた、四児の母だという高校の先生の話をふと思い出す。
「私は、子どもを育てるにあたって“男だから”、“女だから”とは言うまい、そういう意識を作らせまいと決めていました。しかしそのたくらみは、小学校(保育園だったかも?)に入ってあっさりと破られました。学校というのは、男はこう、女はこう、これは男の色、こっちは女の色、ときっぱり分けるんですね。」
今、妊娠6か月なのだが、とにかく周りには性別を聞かれる。もちろん、親である私にとっても重大な関心事だし、経過が順調となれば、あとは性別くらいしか話題がないし、産まれてからだって当面は大きさと性別くらいしか特徴がないのが赤ちゃんだろうから、聞くのは分かる。ただ、その先にうっすら見える、親として子どものジェンダー意識にどうかかわっていくのかという問題に、げんなりしたりできる限りのことはせねばと思ったりする。
ちなみに今のところ性別は不明。
先日、上司に薦められて『LEAN IN』を読んだ。これを読み、部下である私に「妊娠中の奥さんを持ってる旦那さんにぜひ読んでもらうとよい」と貸してくれる上司がいる環境であることがとりあえずありがたい。また、感想として思ったのは、親に感謝することはたくさんあるが(最近特に思うのはたぶん人並み以上に健康に産み育ててくれたこととか)、「女だから」と極力言わずに育ててくれたことであるなあということだった。

本を読む

訳あって少しまとまった時間が取れることになったので、その間にすること(主には読む本)を探している。
やっぱり長編小説(ロシア文学系?)か、読みやすくかついつかは読むぞと思っているあたりでは山崎豊子司馬遼太郎か…。検定試験勉強ではやる気の続きそうな手頃な目標はないし、英語と数学のお勉強を少し混ぜてみるか…。といろいろ考えていたが、ふと学部ゼミの今年の課題本というのもいいかなと思った。ということで調べてみる。ふむふむ。

http://d.hatena.ne.jp/TamuraTetsuki/20130416

http://d.hatena.ne.jp/TamuraTetsuki/20131029

ここ2年ほどは、座学に使う時間(※余暇時間ではない…)の大半を仕事用の勉強に費やしてきたため、実は政治学社会学系の本には御無沙汰になっている。家でネットをほとんどしなくなったので、本の出版情報などもとんと疎くなった。仕事用の勉強というのは主に証券アナリストで、仕事で必要に迫られるまでよもや自分がそんな資格に手を出そうとは想像もしなかったが、なんとか試験には合格。経済学やらファイナンスやら証券理論やらそれに必要な数学やらは、なるほどそういうことだったのかとは思うことも多かったし、実務的に役立つこともあるし、苦手・できないと思っていたこともやればできる、というあたりの意味ではとても役に立っていて、やってよかった勉強ではあった。というとえらそうなのだが、「カスカスでも試験に通る」のレベルに瞬間的(試験の当日)に到達しただけで、正直身についていないところも多いので、この分野の復習というのも有意義ではあるのだが、勉強しながら思ったのは、これを突き詰めても私の幸せにはなんら貢献しない、根本的に面白いとは思えないな、ということであった。

広い意味で「ビジネス書」の比重が高くなり、なんとなく思考が単純化して、現実的・実利的に寄りすぎているような…物事に問題意識を持たなくなっているような、とがらなくなっているような、というような意識をどこかで持っているせいかもしれない。

さて、気がつけばゼミに入った時から10年が経過。昔よりはましな読み方ができるのかどうか…。

ああ『人間の条件』って結局読まなかったなあ…と思いながら映画「ハンナ・アーレント」を見た週末でした。

2012年振り返りなのか

選挙結果と、自民党憲法改正案を読んでいたら、憲法や政治や思想について勉強して、「何これやばい」ということを説明できるようにならねばならないのではないか、と思った。

  • 亡くすこと

今年、祖母を亡くした。90を目前にしていたから、「いつなにがあっても」という年齢ではあったが、体はどこも悪くなく、むしろ気力もいよいよ充実して趣味に勉強にまい進していたから、「あと10年、短くとも5年はぴんぴんしているだろう」と何となく思っていた。そんな祖母だったが、転んで頭を打って、打ちどころ悪くそのまま…という、しっかり者の祖母らしからぬあっけない形で亡くなってしまった。あまりに急なことで、身内は茫然としていたが、わずかな救いはそうした事故であったがために誰も恨まずに済むことだ、と私は思った。
もしこれが、交通事故やなにがしか人の関係した事故だったら、よくも…と思わずにはいられなかったろうし、それは急なお葬式を一層辛く暗くしただろうと思う。その一方、もしもこれが脳梗塞や心臓発作などの病気だったら、同じ突然でももう少し気が楽だったかもしれないとも思っていた。あんなに元気だったけれど…残念だけれど…これも寿命だったのかな、と思ったかもしれない。不思議なものだ、亡くなってしまえば、同じなのに…。そんなことを考えて、突然に理不尽に大事な人を亡くすことをの不幸について、少しわかった気がした。たとえば東日本大震災の多くの犠牲者の遺族の方々。

  • 結婚初年度の終わり

2月にパーティーをやって、9月に新婚旅行に行って、結婚イベントも一通り終わり、1年も経ったので「新婚」は終わりを告げた。

  • ネット

ネットに顔出すことがめっきり減った。フェイスブックが一気に拡大しているが、実は、あまりに善意でたわいのない書き込みであふれすぎると疲れるので、あまり書きこんでいない。一つ一つはいいのだが、あまりにも毒にも薬にもならないものばかりだと…。

ネタはいくつかあるのだが、久しぶりのせいか調子が出ない…。服(日本の衣料メーカーに頑張ってほしい件)、アイドル、ベルばら、など。

  • 女性登用

について、今、安倍総理が演説をしているが(正確には、「演説の中で言及をした」だけだが)、それを聞いて思い出した。育休中の友人の、夫婦の会話、とのこと。
「私は、仕事に復帰していいんだよね?」「育児と家事に支障がないならいいんじゃない?」
彼女は仕事を辞めると言った。この「どうしようもなさ」をどうすればよいのか。
それから、けんかをすれば、争えば、無神経な方が勝つことについて。

エイプリルフールなのだが

特に何もしていない。
同居人がいると、つぶやいたりブログ書いたりしようという気がかなり薄くなる、というのが実感のこの半年間。
西川祐子・上野千鶴子・荻野美穂『フェミニズムの時代を生きて』(岩波現代文庫)を読んだ。対談や鼎談は、ページ数の割に内容が薄くなるという印象があったのだが、これは面白かった。お互いの攻め合い方、明言ぶりは『ザ・フェミニズム』の比ではない。たしか、『上野千鶴子に挑む』で、「自らについて語れ」とゼミ生に迫られても「それは関係のない話」とするっとかわしていた上野さんが、今までになく自分自身について語っていると驚いた。
岩波現代文庫は当たりが多いというのが個人的な感想。

げにや年を経て

さて、まともに更新できないまま、「後で書きます」と言ったもろもろも下書きフォルダに眠ったまま、また別のものを書きだすという消化不良パターン。
このごろ、「人間て変わるんだな〜」と思うことと「人間て変わらないんだな〜」と思うことと両方あって、どちらもいい意味のときもよくない意味のときもある。「人間も人生もいろいろだよね」と言ってしまえばそれまでなのだが、一つ一つの出来事や人を見ていると、ふうん、と結構胸に感じることがある。
ただ思うのは、方向性だけは間違ってはいけないということ。小さな角度や方向性の差が、年を経るごとに大きな大きな差となっていくのだとこのごろ感じる。そんなことは昔から「ちりも積もれば山となる、毎日の努力の差が結果の違いを生む」とかなんとかたくさん学校で聞いたような気もするが。
こんな例えしか出てこないのは我ながら遺憾ではあるが、y=-x+4とy=2x、x=1やx=2なら差は無いか小さいが、それがx=5、x=10となってくると二つのyの差は埋めがたい。会社人生も5年目が半分以上終わったこのごろ、ここからさらに5年後10年後に、自分や同期入社や周りの人たちはどうなっているのだろうと思う。私のy=ax+bのaは、間違ってはいない方向で、プラスであると思いたい。
あとはただ、人のよいところは真似、悪いところは「人のふり見てわがふり直せ」とだけ思いたいものだ。
さらに言えば、自分は平行線かもしくは「平均」のところにいると思っていて、つまり客観性を持っているように勘違いしていて、傾きaがマイナス(と見ゆる)人を見ては憐れみ見下しまたはなんとかしたいと思い、傾きaが大きな人を見ては焦ったりうらやんだりしている、そんな感じ。